『備中松山藩の山田方谷の事業再生』江戸時代から経営改善のヒント①

武士・農民・商人の視点で行った山田方谷の経営改善

備中松山藩の農民として生まれた山田方谷は、その知識と人間性が認められ士分に取り立てれて藩政に関わるようになります。

山田家は農業に携わる一方で菜種油の製造販売も行っていたため、その商売での経験が藩政改革における新規事業の開拓や流通改革に役立ったと思われます。

方谷が仕えた備中松山藩は、現在の岡山県高梁市にありました。転封により藩主家は入れ替わり1744年ごろから板倉家が領するようになります。

表高5万石と言われていましたが、検地の不正があったようで実際は1万9千石しかなかったようで、求められる家格による出費と実際に収入に大きな差があり、かつ藩内の不正や問題もありした。

板倉勝静の時代には、多額の借金を抱えており、松山藩は風前の灯のような状況でした。

藩の危機を脱するために、有能さを認められていた方谷が藩の元締役に任命されます。

 

倒産寸前の備中松山藩の財政状況

松山藩の財政状況は1万9千石という石高ですが、すべて藩の収入にならず四公六民と言われたように19,000×0.4=7,600となります。

また、この収益から藩士の家禄が支払われますので、藩や藩主のために使える金額はしれています。

大体5割ほどだったので3,800ぐらいだったようです。

一方で借財は10万両あったと言われています。

そして、当時は1石=1両だったと言われていますので、飲まず食わずで全額を返済に充てても下記の計算のように約26年も掛かるという状態でした。

100,000両÷3,800石≒約26年

 

方谷はこのような過酷な状態の藩の財政改革に取り組んでいきます。

 

コストカットだけでない7つの施策

方谷の主な施策を箇条書きにすると下記の7点になります。

  1. 質素倹約
  2. 金融調整
  3. 新規事業開拓
  4. 既存事業改善
  5. 流通改革
  6. 人材育成
  7. 設備投資

 

1.質素倹約

藩主から領民まで徹底して無駄な経費の削減を図ります。

じれが、新規事業や設備投資の予算をねん出するために、藩士に払う俸給を減らして出費を抑える事が大きな目的です。

加えて、奢侈に流れている藩内の風土の改善により、生活費を抑えらえるように上からの規制も兼ねています。

藩政に弊害を生んでいる賄賂や接待を禁止し、不正につながる慣習を無くすことも目的です。

 

2.金融調整

債権者である金主を集めて藩の財政状況を隠すことなく公開し、経費削減策や新規事業開発を含めた再建計画を披露しています。

そのうえで、債務の10~50年に返済期間の延期と金利の免除を要請しています。

また、複数の金主に分かれていた借金を一つにまとめるために、金主を加島屋に一本化しています。

3.新規事業開拓

備中国北部は砂鉄の産地であったため、鉱山開発と製鉄事業を藩の事業として強化します。

そして農具・鉄器・釘の生産に取り組み「備中鍬」が特産品として有名になりました。

米以外にも、杉、竹、漆、茶などの栽培を奨励して新しい特産品の開発に取り組んでいます。

4.既存事業改善

従来からある特産品の生産量の拡大も推進し、その中で煙草を奨励し「松山刻」として有名になりました。

また新田開発にも取り組み、新田にかかる租税を免除したことで、収穫量の拡大と農業人口の増加に成功しています。

5.流通改革

これまで藩内で収穫した米は、大阪の蔵屋敷にて米問屋の売買の委託をしていたため、役人に賄賂などで癒着した米問屋が自身に有利な売買をして、藩財政に損害を与えていました。

この大阪蔵屋敷を廃止して、施設の維持費1,000両を削減した上で、藩が直取引を行い収益改善に成功しています。

6.人材育成

藩士の教育にも力を入れつつも、領民にも教育の機会を与えています。

城下や飛び地に領民のための「教諭所」を、野山には「学問所」設立し、教育を施しています。

また成績優秀なものは士分に取り立てるなど、藩政のための人材育成にも努めています。

7.設備投資

アメリカ製のスクーナー船を14,300ドル(7,150両)で購入して、藩が自身で米など産物の物資輸送をできるようにし、戦時には軍艦として活用できるようにしていました。

また、財政改革によって生み出された利益を貯め込むだけでなく、領内の道路や河川の整備に活用するなど設備投資を心がけています。

 

現代の企業再生に通じる藩政改革

方谷は中小企業診断士やコンサルタントが現代で行っているような施策で藩政改革を推し進めて、これを何とか軌道に乗せています。

藩の専売事業の収益は三年目で1万両を越えて、次年度には5万両に達しようとしています。

松山藩の財政力は20万石クラスになったと言われています。

江戸時代における藩政改革の多くは失敗しています。それは武士身分の一方的な視点からの改革だったからかもしれません。

方谷が特長的なのが士農工商のうち士農商を体験している点だと思います。

そのため領民たちにも十分な取り分が生まれるように利益の分配を図っています。

方谷の施策の多くは、現代でも通じるものが多いと思います。

特に、コストカットなど経費削減をするだけでなく、余剰の利益を設備投資などで有効活用し、新規事業や既存事情の発展に繋げている点は、非常に参考になります。

これらの藩政改革の実績は、明治政府にも高く評価されていて、政府への出仕を求められていますが、年齢や後進育成を理由に断っています。