遺言の大事さが分かる上杉謙信の事例「戦国武将から学ぶ事業承継②」

上杉謙信の死後に起きた家督争い

現代でも企業の代表が突然死去したことで、後継者が定まっていないため大混乱に陥ることが多々あります。

「波風立てないためにも時間を掛けて事業承継を」という計画が崩壊するパターンです。

この場合の多くが遺言すら残していないことも多く、後継者の選別だでなく株式の相続も絡んで、危機的な状況になりがちです。

これと同じパターンで御家が滅亡寸前までいったのが有名な上杉謙信の上杉家です。

 

謙信は後継者について明確な意思表示をしていなかった

謙信は生涯、妻帯しなかったため、子どもがいませんでした。そのため後継者候補として養子をとっていました。

姉の子で甥にあたる景勝と、北条家から人質としてきた景虎の二人です。景虎は景勝の妹を娶っていたため一応縁戚関係にあります。

謙信はそれぞれを長い目で育成しようとしていたのか、どちらを正式な後継者とするかを名言していませんでした。

しかし、謙信が突如として亡くなったことで、上杉家は後継者争いが起こり、大混乱に陥ります。

織田信長という巨大な敵と対峙している最中に、上杉家は家中を二分する「小舘の乱」という内部抗争に突入してしまいます。

 

後継者争いによる大幅な衰退

謙信が亡くなる直前の上杉家の領地は、一説には越後、能登、越中、加賀に加えて、信濃と上野の一部で、200万石以上あったと言われています。

しかし、小舘の乱という内部抗争を経て、景勝が後継者に確定したあとには、織田家の攻勢と家臣の反乱もあり、越後一国を維持できない状況になっていました。

織田家の柴田勝家の軍は上杉家の本拠越後に攻め込む寸前にまできており、景勝ももはや上杉家は織田家の前に風前の灯火であることを自覚していました。

ただ、この時に運よく本能寺の変が起こり、織田家中の混乱によって命脈を保つことに成功します。

その後は、秀吉との連携を強めた事で、100万石以上の領地を確保できましたが、本能寺の変がなければ、今ごろ上杉は消滅していたと思われます。

 

後継者の明示だけでなく、その他の手続も重要

現代でも謙信のように後継者を決めないままに亡くなって、大混乱になるケースは非常に多いです。

また相続によって株式が分散してしまい、経営権が不安定になることもよくあります。

そのため経営者は、なるべく早く生前に事情承継の準備を進めておく事が重要です。

弁護士を入れて遺言書を作成しておくことや、株式を後継者候補に生前贈与をしておくなどの手続き関係も重要です。

またそれだけでなく、事業を円滑に引き継いで運営していくために、取引先や銀行、その他の関係者に後継者を紹介しておくなど大事な事です。

上杉家の教訓を活かして、計画的な事業承継を心がけることをおススメします。

このような場合にこそ中小機構や商工会議所の無料相談など活用してください。