【戦国時代と育児】父子コミュニケーションの重要性を伊達政宗で見てみるの資料を公開

伊達政宗から父子コミュニケーションの重要性を考える

2020年に行う予定だった戦国イクメンセミナーが、コロナで中止になり、せっかく作成したセミナー資料がGoogleドライブで冷凍保存されたままになっていました。

2年ぶりに発掘されたので、せっかくなので資料のみですが公開します。

伊達政宗は、希代の反逆児として、時の権力者の豊臣秀吉や徳川家康から、始終警戒され続けました。

本拠地の山形県の米沢地域を秀吉に取り上げられ、その後の家康の時代になっても、与えてもらえませんでした。

逆に、伊達家のライバルでもある上杉家が米沢藩に据えられるという始末です。

そんな政宗ですが、唯一の悩みは長男の秀宗の処遇でした。

秀吉の猶子となって秀頼に近侍していた秀宗は、家康の時代にはそぐわない存在とされて、家督の継承権をはく奪されてしまいました。

それを不憫に思った政宗は、秀宗に別家を立てさせるために奔走します。

しかし、長年人質として苦労してきたにも関わらず、家督の継承権を奪われた秀宗の怒りは収まりませんでした。

そして、遂に壮大な父子喧嘩へと発展していこうとします。

幕府を巻き込んでの父子喧嘩は、最終的に、仙台藩は次男の忠宗が、伊予宇和島藩は秀宗が藩主となって、幕末まで続く事になります。

この事例からも父子間に大事なことが見えてくるという内容をスライドにしています。