【戦国でSWOT】戦国時代に投機と投資を使い分けた真田昌幸の生き残り戦略

現代にも通じる中小大名の生き残り戦略の巧みさ

戦国時代は、乱高下の激しい時の証券市場のように、一つの判断を誤るだけで大損失ならぬ大被害に合い、御家の滅亡に繋がります。

特に、真田家のような10万石以下の中小大名では、自家が持てる兵力に限りがあるため、有事に備えて、どうしても大きな勢力の傘下に入る必要があります。

なので、真田昌幸は、自家の存続のために、状況に合わせて何度も従属先を替えながら、自立を維持していきました。

そして、豊臣政権下で、独立した大名としての地位を築く事に成功しました。

しかし、秀吉の死亡後に起こった関ヶ原の戦いで、西軍には昌幸と次男の信繁、東軍には長男の信之が参加する事になり、親兄弟が二つに分かれて戦います。

結果として、敗れた西軍の昌幸と信繁は九度山に配流され、東軍についた信之の系統が松代藩として幕末まで存続する事になります。

これは、偶然の結果ではなく、昌幸の中で、現代に通じる投機と投資の視点による生き残り戦略の絵を描けていたのかもしれません。

今回は、その真田昌幸の生き残り戦略について考察してみたいと思います。

環境に合わせて投機的な打ち手を繰り出す

投機と投資の違いは、大まかに言うと、短期的な取引で利益を得ようとするか、長期的な取引で利益を得ようと考えるかにあるそうです。

投機相場の変動を利用して利益を得ようとする短期的な取引で、大きな損失が発生する可能性がある。
投資将来が有望な投資先に、長期的に資金を投じる事で、元本保証はされていない。

 

真田昌幸は、その外部環境に合わせて、短期的な視点と長期的な視点を使い分けて、真田家の自立を維持しようとしました。

武田信玄が健在のころ、真田幸隆の三男だった昌幸は、武藤家に養子に出ていましたが、勝頼の時代に長篠の戦いで、兄たちが戦死したことで、急遽、真田家の家督を継ぐ事になりました。

信玄には忠誠を尽くしていたようですが、勝頼時代の武田家の将来に不安を感じていたのか、徐々に昌幸は真田家の自立を模索し始めていたと言われています。

1582年に、織田信長による甲州征伐によって武田家が滅びた時には、信濃衆だった事で追討を免れ、織田家に従属し滝川一益の与力となります。

昌幸は、この頃から、大きく動く環境の変化に合わせて、全財産を投機するように、短期的な視点で臨機応変に打ち手を代えていきます。

同じ年の本能寺の変による混乱によって、北条家、上杉家、徳川家が、武田の旧領になだれ込んでくると、滝川一益を安全な地域まで逃し、与力としての義理を果たします。

そして、北から攻めてきた上杉家にひとまず臣従し、数週間後には北条家に降ったかと思うと、2ヶ月後には徳川家に付き従い活動を始めます。

3年ほど後に、徳川家の真田家に対する対応に不備があり、再び上杉家に従属先を変更するなど、まさに投機やデイトレードのように、小刻みに打ち手を代えていきました。

1582年4月織田家に従属
1582年6月上杉家に従属
1582年7月北条家に従属
1582年9月徳川家に従属
1585年7月上杉家に従属

 

1585年に、徳川家と手切れになった時には、僅かな兵で徳川家に大勝した第一次上田合戦が起こりました。これによって真田家の実力が内外に広まったと言われており、この勝利が真田家の財産になります。

その後、1585年の冬ごろに、上杉家が豊臣家に従属するのに倣うように、昌幸も西日本を制覇しつつある豊臣家に従属を願い出ます。

この頃になると、豊臣家による天下統一が目に見え始めており、昌幸は、投機のような短期的な従属ではなく、投資のような長期的な視点で、真田家の自立の維持と繁栄を目指していきます。

 

投資先を分けてリスク分散を図る

1585年に豊臣家に従属して以降、1600年の関ケ原の戦いが起こるまで、昌幸は、今までとは打って変わって、長期的視点の元で、行動をするようになります。

まず、長男の信之を、家康を索制したい秀吉の命により、真田家から独立させて、徳川家の与力大名として派遣します。

ちょうど、真田家と良好な関係を築きたいと考えていた家康は、本多忠勝の娘を自分の養女とした上で、信之に嫁がせ、縁戚関係を持ちます。

一方で、次男の信繁(幸村)は、人質として大阪に送られますが、秀吉の馬廻衆として側仕えする事になり、秀吉側近の大谷吉継の娘を娶り、後に豊臣姓を下賜されるまでになります。

こうして、豊臣家と徳川家の両家に深く繋がる事で、投資のように長期的な関係性の構築を始めました。

もちろん、これは昌幸が、この両家から一目置かれるような活躍を見せた事で、真田家を自分の勢力に取り込みたいと思わせられたのが重要なポイントだと思います。

こうして、有力な両家との繋がりを維持したまま15年が経ち、秀吉の死亡後、関ヶ原の戦いが起こると、西軍に昌幸と信繁、東軍に信之にと、敵味方に分かれて戦います。

この時、昌幸が、信之を西軍に引き込むような活動をしていない事を考えると、どちらの天下になるか分からないと判断し、投資的視点によるリスクの分散をしたと思われます。

結果として、東軍の勝利となり、信之の活躍のお陰で御家は存続、また信之の功績により昌幸と信繁は処刑を免れ、九度山への配流で落着しました。

昌幸の生き残り戦略が成功し、信之が松代藩への転封の際には13万石に増加しており、真田家全体としては、プラスの結果となりました。

そして、徳川家から信頼を受けていた信之は、91歳になるまで隠居を許されなかったと言われています。

まとめ

現代の中小企業と同様に、真田家も中小大名であるため外部環境の変化に左右されやすいのですが、逆に昌幸は中小だからこその身軽さを活用して、環境の変化に合わせた投機的や投資的な活動の使い分けができたのかもしれません。

北条家のように組織が巨大化すると、環境の変化への対応が遅れて、小田原征伐を招いた実例もあるので、中小企業は、小さな組織である事を強みにした事業活動を展開していく事が理想だと思います。

ちなみに、第八代藩主の幸貫の頃に、洋楽の導入、殖産興業、文部学校の開設などの投資を積極的に行っており、第十代幸民の時に起きた明治維新では、老中も出す譜代並みの立場だったのにも関わらず、早い段階で藩論を勤王に統一し、官軍に参加して戊辰戦争の初期の頃から活躍をしました。(3万6千石の三田藩の九鬼家も同様なので面白いです)

その結果、維新後の賞典禄という論功行賞では、島津、毛利、山内に次ぐ三万石の評価を受けています。

真田家には、昌幸以来の投機と投資の切り替えの精神が受け継がれていたのかもしれません。

 

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